盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

地図をクリックすると拡大します
幸遊記NO.484 「ボストンの覇者・山田敬蔵逝く」2020.4.27.盛岡タイムス
 秋田市の石垣隆孝さんからショートメール「今日(4月23日)魁(秋田さきがけ)新聞で山田(敬蔵)選手の訃報が伝えられました、、、健康お見舞いと連絡まで」と。新聞では「2日川崎市で老衰のため、92歳で。葬儀は8日に近親者のみで行われたそうです。山田敬蔵(幸遊記№347)さんは、1953年のボストンマラソンで2時間18分51秒(世界新記録)で優勝した人。昭和2年(1927)秋田県大館町生まれ。身長5尺2寸(157.56㎝)体重11貫5百匁(43.125㎏)という小柄な体で世界で初めて2時間20分の壁を破った。その優勝一ヶ月後には彼の地元で山田記念ロードレース大会が開始され今日まで続いており、2014年4月同大会を浅利純子選手と共に完走した時、敬蔵さんの年齢は86歳。
 山田敬蔵物語(石垣隆孝・文/北鹿新聞・2018年10月~12月)によれば、父・吉治、母・スミの2男として生まれ、小学校時代は運動神経が鈍く運動会嫌いだったという。15才の時満豪開拓青少年義勇軍に志願し満州へ。毎日軍歌を歌いながら駆け足をしたのが走る日課の始まりで復員するまで数年間続け、1㎞走で200人中1位になり後のマラソン人生のきっかけとなった。終戦後満州から秋田へ引揚げ昭和22年(1947・僕の生まれた年)に町の運動会で4㎞競走で4位。翌年の10㎞で1着となり、以降往復数十キロを走って通勤したという。昭和24年第4回国体(東京)に秋田県代表として出場42.195㎞のフルマラソンに初出場7位(県予選優勝者・河田康雄さんが故障。彼は若い山田さんを代表にしてほしいと言って辞退した)の幸運スタート。1952年ヘルシンキオリンピックの日本代表で26位。以降「一にも二にもスピードだ」と冬の雪上、吹雪の中でも毎日走り続け、54年のボストンへ、その檜舞台で彼が打ち立てた記録は人類未達成の新記録。ヘルシンキでのサドベックの人間機関車の上を行くジェット機関車の名が冠せられ、更には彼「山田選手をたたえる歌」(山田千之・作詞/石井歓・作曲/石井五郎・編曲)まで作られ、ボストンには2007年まで17回の出場、山田記念ロードレースには60回連続出場。80歳を迎えるまでに35万㎞余りを走り切った。健脚、健腸の人であった。コロナでオリンピック延期の今年、彼の命も途絶えた。僕の店には第一回から1964年までのオリンピックポスターを展示中である。



戻る
Copyright (c) 2005 Jazz & Live Johnny. ALL rights reserved.