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かつて岩手県三陸町(現・大船渡市)にあった北里大学水産学部のジャズ研究会「浦崎スタンダーズ」のベーシストだった畔上佳成君が、久し振りに僕の前に現れたのは2011年8月9日。穐吉敏子・ルー・タバキン夫婦による、東日本大震災復興支援チャリティー・ジャズライブ「ホープコンサート」を、僕等が紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」で開いた時だった。 ほぼ20年振りの再会。その時、「ケンちゃんこれ!」と言って僕に持参してくれたのは、何と!1992年11月に、僕が大船渡市農協会館と盛岡・岩手教育会館で開いたコンサート「穐吉敏子ジャズオーケストラ」の全メンバーから彼がサインを貰った貴重な一枚の色紙だった。一瞬の内に頭の中がフラッシュバックした!そうだった。あの時の二大イベント。北里大学のジャズ研のメンバーに、コンサートを聴かせるからと、先のオーケストラ。翌93年の6月のカルテット。「陸前高田市ふれあいセンター」と「盛岡劇場」での公演時に当日のスタッフとして手伝って貰ったのだった。 しかも、彼等が卒演を僕の店・陸前高田ジョニーで行ったとき、なんと4回聴いて覚えた穐吉敏子さんの新曲「ヒア・カムズ・ジョニー」を演奏し僕を驚かせたことも、まるで昨日の様に鮮烈に思い出したのだった。 畔上佳成、彼は昭和46(1971)年・東京渋谷に生まれ、小学生の時に父と釣りに行ったことがきっかけで、魚の勉強がしたいと、都立千歳ヶ丘高校を卒業して北里大学水産学部へ入学し三陸町へ。大学でロックをやっていたら、児玉教授から3年生の時にジャズ研に引っ張られ転向。卒後は東京で本格的にジャズベースを習ったと言う。横浜に障害者の通所施設建設のための、チャリティーコンサートを開いた時、藤原清登(ベース)トリオを、開港記念会館に呼び、大きな話題と成果を上げたのは2011年6月25日のことだった。 そして彼は今年(2013)、僕が主催した10月31日の穐吉敏子さんのコンサートを東京・原宿に聴きに来てくれ、すぐ又、盛岡の開運橋のジョニーへと現れたので、僕は嬉しくて仕方がなかった。 戻る |
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