盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
OPEN:(火・水)11:00~23:00

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携帯写真より

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開運橋のジョニーからベランダ便り[01/25]
バスセンター.ベランダ便り[01/24]
穐吉敏子ジャズミュージアムライブ[01/21]
開店してます。[01/18]
今夜の穐吉敏子ジャズミュージアム[01/14]
Cafe Bar West38[01/09]
今夜の穐吉敏子ジャズミュージアム&Cafe Bar West 38ライブです。ミュージックチャージは¥1,000メンバー.北島貞紀(p)桜井勝(b)山内協(d)菅原幸治(sax)特別ゲスト民謡日本一.佐野よりこ(vo)です?午後7時~9時。是非バスセンター3階にお出掛け下さい。小春[01/07]
穐吉敏子ジャズミュージアム[12/03]
穐吉敏子ジャズミュージアム[12/03]
お久し振りです。[12/03]

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幸遊記NO.445 「金沢の五木寛之文庫」2019.7.29.盛岡タイムス
 仕事で金沢と盛岡を往き来しているジャズファンのA氏より「ジョニーに金沢に来て貰いたい」そう言って間もなく一泊二日の予定でプランを立て、ホテルを予約し往復の切符まで用意してくれたので、7月24.25日と行って来た。ありがとう。金沢は1999年に穐吉敏子ジャズオーケストラの演奏を石川厚生年金会館に聴きに行った以来20年振り。駅に車で迎えに来てくれた彼は、僕が行きたいところを連れ歩いてくれるという、願ってもない申し出。金沢の観光マップやら、記念館の案内パンフ、僕を五木寛之ファンと知っての「五木寛之の金沢さんぽ・エッセー集」など、切符と一緒に届けておいてくれたから、気分は梅雨時のようにウキウキ?していた僕。
 先ずは金沢文芸館、盛岡の賢治・啄木青春館のような、昔は銀行だった建物。金沢市の保存建造物で国登録有形文化財になっているルネッサンス様式建築のカッコよさ。1階交流サロンには五木寛之さんの奥様・玲子さん(金沢出身)の絵が飾られた美術館的一角があり、その独特な画風がかもし出す雰囲気もまた、金沢のもう1つの世界観。3階文芸フロアでは、研究講座が開かれている最中であった。奥には金沢に生まれ、近代文学に偉大な足跡を残した泉鏡花の文学賞を受賞した人々と、その作品の展示室があり、えーっ、この人もあの人も、と今もときめく作家たちのオンパレード。1973年の制定。2階は金沢五木寛之文庫、作品群とその表紙の写真、レコードや小物なども展示され、彼の生き方の魅力にまで迫る空間なのだが撮影不可。そこで案内役の素敵でかわいい年配のご婦人と話をしていると、「実はここが、第2文庫で第1五木文庫は本多町の喫茶店“おあしす”の2階にあります」と教えてくれた。そこは今金沢一の人気スポット「金沢21世紀美術館」の真向かいにあり、何と「金沢20世紀カフェ」と表示している面白さ!その下に五木氏の字による「五木寛之文庫」の小さなプレート。1階はレトロな昭和の喫茶店、2階はかつての金沢タウン誌「月刊・おあしす」の編集室だったところで、本棚には五木氏の膨大な全バージョン作品群があり、しかも無料で貸し出してもいるという。その中から例の1冊「海を見ていたジョニー」を取り出すと本の中にはさまれた五木寛之小説全集月報(9)第8回配本1980.4.24講談社のしおり。そこには「海猫の見えるジョニー」というタイトルで作家・阿奈井文彦氏が書いた作品紀行文。33才時の僕のことが書いてあり、そのコピーに五木文庫のスタンプを頂いて来た。

幸遊記NO.444 「遠い空、夏の思い出」2019.7.22.盛岡タイムス
 うたの文句じゃないけれど、夏が来ると思い出すのは、はるかな尾瀬ではなく“遠い空”。
戦後30年してフィリピンのルバング島で救出された元陸軍少尉・小野田寛郎(当時51才)。発見(出会って一夜を一緒に過ごし写真撮影)したのは、当時日本の恥といわれたヒッピー的旅人?だった鈴木紀夫さん(24・千葉県市原市)アルバイトで稼いだお金で小野田さんを探しに行こう!とフィリピン軍当局と交渉して、現地に乗り込みキャンプしながら小野田さんが出てくるのをたった1人で待った男のロマンが適中してのことだった。「名刺の肩書が無ければ指一本動かせない現代サラリーマンは大いに見習う必要があるだろう」とは当時の朝日新聞(1974年3月13日付)。だが本当に見習う必要があったのは日本国だったはず。
 1950年に赤津勇一元一等兵が病気で島民に保護された時、まだ山中には3人の元日本兵がいることがわかった。54年その内の一人、72年にはもう一人比軍、警に射殺され、その度に日本政府が捜索隊送り、それにかけたお金は一億円。その最初の説得隊がルバング島に渡ったのは1954年5月、それを報じたアサヒグラフ(54年6月23日号)を開けば、日本全国に5000人300団体はあろう楽隊の花形はジャズピアニスト!と日本を代表する7人のピアニスト中、紅一点、穐吉敏子さん(24才・楽団・コージークインテット・リーダー)の写真と記事。その更に20年後の74年、小野田少尉が直立不動で敬礼する姿をTVで見た彼女はアメリカのジャズ界にあって一人奮闘していた自分と重ね合わせ「孤軍」を作曲し、自分のビッグバンドで演奏、録音。そのレコードを僕に聴かせてくれたのが“軍記”さんという先輩だったが、それこそ愛国心の強い穐吉さんが旧満州(中国)の弥生高等女学校4年の時、陸軍看護婦募集に、お国の為になろうと志願!興城市の陸軍病院で実習。訓練終了後に送られる希望地の第一志望に「最前線」と書いた直後の終戦。片や小野田少尉は陸軍中野学校二俣分校出。「たとえ国賊の汚名を着ても生き延び任務を遂行せよ、戦争が終わっても次の戦争が必ずはじまる。それにそなえて残り、守備隊が全滅しても情報収集を続けよ」との命(めい)を受けたのは終戦のわずか8ケ月前のこと。それを守った彼と孤軍のバンドを率いた彼女の自分との闘いはそれぞれ30年に及び、1997年10月22日小野田元少尉は東京ブルーノートで穐吉敏子ジャズオーケストラの演奏する孤軍を来聴した。

幸遊記NO.609 「」2022.9.27.盛岡タイムス
欠番

幸遊記NO.443 「さがのさがとさがのうたじゃず」2019.7.15.盛岡タイムス
 「ジョニー!僕の好きな歌手を呼びたいんだけど、ここで演らせて貰えないかな?」そう言ったのは、日本酒愛好家の田中三郎さん!“この人!です”と、4枚のCDを持参。この人とは独自の解釈で様々な音楽を自分流のジャズにしてしまう独特の雰囲気を持つ「さがゆき」さんでした。日時は7月12日2019。会社員である田中さんが、自分のポケットマネーで印刷したA5サイズのフライヤーは、写真家でもあり写真展も何度か開いている田中さんらしく北上川に架かる旭橋から開運橋撮った写真にギターを持つ“さが”さんの顔写真をフィーチャーした、それこそ独特の雰囲気を持つもので、そのフライヤーで彼が釣り上げ連れて来た人は18名。まさに彼が18番に好きな歌手を彼自身が18番に好きな18人の友人達に聴かせたライブは、田中のさがワールドと言っていいのだろうと僕は思い、昔ジャズ喫茶店主というものはまさにこれだったと。夢中になってコンサート主催した若かりし頃の自分や同業だった人達のことを思い出さずにはおれない雨の夜だった。
 「雨とは天が空になるまで流す涙のこと」そう頭の中に浮かんだのは、彼女が帰る時。エレベーターホールにて僕の女房にひしっ!と抱きついて離さない“さが”さんが顔を上げたら、目は夕焼け、まるで真っ赤な海に沈む巨大な太陽のように見えた。小さい時からテレビも見ずに家にあったジャズのレコードを親に隠れて聞き、自分なりの譜面を書いてはひとり弾き遊び幼稚園児時代からジャズをうたい、小学生ですでにライブをやり、一万ものギャラ貰い、中学の時はタクシーで学校に通ったほどの収入を得、バンドにもアンプを買った。母の兄弟はジャズミュージシャン。北村英治のバンドに頼まれ母が着せてくれた深いグリーンの服でディナーショーのステージに立ったのは15、6歳の時。まもなく中村八大さんがスカウトに来て、車ベレットGTを買い、生徒手帳には歌える曲、バットノットフォーミー、酒とバラの日々、コルコバード、ラウンドミッドナイトなど大人の曲をズラーッと書いていて、学校から始末書を書かされたほど、いわゆるわるい娘の女王様、「我が世の春よ!」と彼女。合格した青学に行く間無くステージに追われ、様々なミュージシャンやファンとの出会いによって昔も今も売りではなく買われる唄のステージが月の半分以上あるのはまさに彼女の魅力そのものである。乾杯!。

幸遊記NO.442 「シュート・アロー様・楠瀬克昌様」2019.7.8.盛岡タイムス
 謹呈の印が押された「ジャズ批評」誌(株・松坂)210号が手元に届いた。松坂さんありがとう!僕もあの東日本大震災以来、古い批評誌を捜し求め続けて、ほぼ全巻揃えたところです。それはともあれ、シュート・アローさんという楽器メーカー勤務の某日本人筆者の新連載「ライナーノーツの誘惑」プロローグに次ぐ第2回「陸前高田の縄文ジャズ」を読みました。「海を見ていたジョニー/坂元輝トリオ・ライナーノーツ・執筆者・五木寛之。1982年発売」とありますが、発売は81年。「五木氏がライナーノーツを執筆することになったのは実際にジョニーへ訪問したことによる」ではありません。五木さんがジョニーに来たのは91年12月。「大作家でしかも極めて多忙な五木氏がなぜ岩手県陸前高田市のジャズ喫茶ジョニーのためにライナーを執筆したのであろうか?」これは僕が五木氏宅に直接頼みに行ったことからですが、書いて頂くのに7ヶ月ほど待ちました。「多額の原稿料をジョニーが五木氏に支払ったとは考え難い」はその通りで五木氏の無償の愛によるものでした。そして「ジャケット写真・朝倉俊弘」の名は俊博。
「なおジョニーズディスクを創設した照井顕氏は現在盛岡で開運橋のジョニーを経営しているようだ」とありますが、知っていてどうして確認の電話一本ないのだろうかと思います。シュートさんが2014年に出版した「昭和・東京・ジャズ喫茶」(株・ディスクユニオン)本の巻末に特別編として、仮設のジャズ喫茶を陸前高田市に訪ね、現店主(僕の元妻)の話をそのまま受け止めたからなのだろうかと?。しかも彼は、昨2018年11月名古屋の楠瀬克昌氏のJAZZ・CITYが発行したジャズ喫茶案内「GATEWAY・TO・JAZZ・KISSA」(陸前高田のジャズタイム・ジョニー)が表紙の本も読んだ様子。だがその本での僕に関する記述読めば、「妻に内緒で盛岡に出て行き妻には負債を抱えた店が残された」とある。そんなことはありません。僕は楠瀬氏に、「確認取らずのこれは、名誉棄損じゃないですか?」と電話した。離婚話ではお金の無い僕のために僕の兄弟達全員がお金を要求されたことから、僕が家裁に申し立てをし、店の負債と盛岡に来てから妻名義に僕が登記した土地付中古住宅の借金も全部自分が背負うことにし、13年に及んだ家庭内別居解消。又、恥ずかしい話ですがウン百万にのぼった離婚までのジャスラック使用料の未払い金についても今尚分割払い中。これが事実です。あ~あ!

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