盛岡のCafeJazz 開運橋のジョニー 照井顕(てるい けん)

Cafe Jazz 開運橋のジョニー
〒020-0026
盛岡市開運橋通5-9-4F
(開運橋際・MKビル)
TEL/FAX:019-656-8220
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幸遊記NO.444 「遠い空、夏の思い出」2019.7.22.盛岡タイムス
 うたの文句じゃないけれど、夏が来ると思い出すのは、はるかな尾瀬ではなく“遠い空”。
戦後30年してフィリピンのルバング島で救出された元陸軍少尉・小野田寛郎(当時51才)。発見(出会って一夜を一緒に過ごし写真撮影)したのは、当時日本の恥といわれたヒッピー的旅人?だった鈴木紀夫さん(24・千葉県市原市)アルバイトで稼いだお金で小野田さんを探しに行こう!とフィリピン軍当局と交渉して、現地に乗り込みキャンプしながら小野田さんが出てくるのをたった1人で待った男のロマンが適中してのことだった。「名刺の肩書が無ければ指一本動かせない現代サラリーマンは大いに見習う必要があるだろう」とは当時の朝日新聞(1974年3月13日付)。だが本当に見習う必要があったのは日本国だったはず。
 1950年に赤津勇一元一等兵が病気で島民に保護された時、まだ山中には3人の元日本兵がいることがわかった。54年その内の一人、72年にはもう一人比軍、警に射殺され、その度に日本政府が捜索隊送り、それにかけたお金は一億円。その最初の説得隊がルバング島に渡ったのは1954年5月、それを報じたアサヒグラフ(54年6月23日号)を開けば、日本全国に5000人300団体はあろう楽隊の花形はジャズピアニスト!と日本を代表する7人のピアニスト中、紅一点、穐吉敏子さん(24才・楽団・コージークインテット・リーダー)の写真と記事。その更に20年後の74年、小野田少尉が直立不動で敬礼する姿をTVで見た彼女はアメリカのジャズ界にあって一人奮闘していた自分と重ね合わせ「孤軍」を作曲し、自分のビッグバンドで演奏、録音。そのレコードを僕に聴かせてくれたのが“軍記”さんという先輩だったが、それこそ愛国心の強い穐吉さんが旧満州(中国)の弥生高等女学校4年の時、陸軍看護婦募集に、お国の為になろうと志願!興城市の陸軍病院で実習。訓練終了後に送られる希望地の第一志望に「最前線」と書いた直後の終戦。片や小野田少尉は陸軍中野学校二俣分校出。「たとえ国賊の汚名を着ても生き延び任務を遂行せよ、戦争が終わっても次の戦争が必ずはじまる。それにそなえて残り、守備隊が全滅しても情報収集を続けよ」との命(めい)を受けたのは終戦のわずか8ケ月前のこと。それを守った彼と孤軍のバンドを率いた彼女の自分との闘いはそれぞれ30年に及び、1997年10月22日小野田元少尉は東京ブルーノートで穐吉敏子ジャズオーケストラの演奏する孤軍を来聴した。



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